尾張西枇杷島まつりの始まりは、高力種信の「猿猴庵日記(えんこうあんにっき)」によると、1802年(享和2年)に始まったとされています。草創期の様子を年表にしてみました。
| 1802年 (享和2年) | 6月13日、西枇杷島六軒町市神祭、当初より車初る。但し社前に錺るのみ、引く事は当年は先づ相見合せ之筈。御役所より指図有之由。名古屋四月の御祭礼の古車古幕を求め用ゆといふ。人形を上ぐる事は不済とぞ。 |
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| 1808年 (文化5年) | 西琵琶嶋車人形は不相成候へ共、一両年は引事御免。祭礼10日・11日に極り、賑合。 |
| 1812年 (文化9年) | 6月11日 枇杷島祭、車人形上ぐる事、当年より御免。但しからくりハ未成。 唐子石橋 梅に仙人 公家鞠遊 万歳等也。 |
| 1813年 (文化10年) | 枇杷島の祭の車、當年始めて人形からくり御免。 |
西枇杷島まつりは、もともと橋詰神社・六軒神社などに祀られる天王社の祭礼に始まっています。古くは、6月10日・11日に行なわれていましたが、一頃は5月3・4・5日に移されていましたが、昭和46年に西枇杷島まつりが西枇杷島町(当時)指定の祭礼とされたことに伴って再び6月上旬に行なわれることとなり、6月第一土・日曜日に行なわれています。
ちなみに、昭和34年の現・平成天皇がご成婚された時は4月に、また昭和44年の西枇杷島町(当時)の町制施行80周年記念の折には10月に行なわれたりしています。
橋詰町、問屋町の氏神は橋詰神社で、東六軒町と西六軒町は六軒神社が氏神です。いずれも天王社で牛頭天王(ゴズテンノウ)を祀り、疫病退散を願う祭りでした。当時、商業が発達した町屋地域に多いお祭りだといわれます。
しかし、先述の高力種信の「猿猴庵日記」の記述に尾張西枇杷島まつりを称して天王祭りとはいわず、市神祭と記されています。「下小田井の市」は広く名古屋の台所を担うべく徳川家康の命をうけて開かれたという言い伝えがあり、特有の名称になったのでしょうか。
尾張西枇杷島まつりでは、「山車」と書き「だし」といいます。
「だし」というのは、天から神が降りる際の目標物としての依代の役割を果たしています。依代は白い布であったりもしますが、尾張西枇杷島まつりでは山車が依代となっているわけです。天王社の祭礼に始まっているわけですから、山車の位置づけも納得できますね。
庄内川には、現在の枇杷島橋のやや上流に、かつて中島と呼ばれる自然の中州を利用した人工の島がありました。この島を利用して名古屋側に枇杷島大橋、西枇杷島側に枇杷島小橋が架けられました。橋は総檜づくりで、七勝八景と呼ばれるほど眺望の名所だったとされています。
かつては、山車を中島に引き入れたこともあり、電灯のない時代の夜には庄内川の川面に山車の提灯の灯が映り、幻想的な光景だったと記されています。