尾張西枇杷島まつり

西六軒町・紅塵車

西六軒町・紅塵車の提灯は紅塵車(こうじんしゃ)と寿亭候(じゅていこう)と書かれたものがあります。寿亭候とは、三国志で有名な曹操が関羽を見方に引き入れるために送った当時の武将の最高位を示すもので、具体には関羽のことを指しています。

詳細は不明ながらも西六軒町の紅塵車は、橋詰町の王義之車と兄弟山車だといわれています。王義之車の屋根の妻飾裏に「享和二年・・・伏見町壱丁目大工森藤九郎住永作之」と記されており、一方の紅塵車の高欄箱・破風箱・八 箱の蓋裏に「壬戌享和二年春・・・・大工森藤九郎住永作之・・・」とあるからです。


◆ からくり人形
華陀の舞が、演じられています。華陀は中国三国志の名医であり、戦の折に毒矢傷を受けた関羽を華陀が治療中に、どこからともなく飛んできた鳥や孔雀の舞いを見て、痛みが和らいだという「三国志演」の故事を演じます。

高力種信の「猿猴庵日記」などによると、1802年(享和2年)に大工・森藤九郎によって作られ、はじめは王義之人形が文字書きする車であったといいます。「年中行事絵抄」や森玉僊の団扇絵には、紅塵車に梅の枝にかかる額に仙人が文字を描く様子が描かれています。
当時は、西六軒町の山車が「王義之の車」と呼ばれ、橋詰町の山車が「唐子遊の車」と呼ばれたようです。(※ 残念ながら太平洋戦争で焼失してしましましたが、名古屋東照宮祭に宮町の唐子遊車と呼ばれた山車がありました。)

しかし、事情は明確になっていませんが、1812年(文政2年)に現在の関羽人形に変わり、華陀の舞が演じられるようになりました。この華陀の舞が、太極拳の元になったといわれています。

紅塵車は、上段・中段の高欄や塗り物の細工が見事です。龍に梅をあしらった素晴らしい細工で、関羽に人形が変わる以前の梅に仙人の時の細工をそのまま受け継いだものと推測されています。

からくり人形の構成など
からくり人形が演じる「華陀の舞」の筋書きでは、鳥舞唐子(とりまいからこ)が大将人形・関羽に一礼した後、瞬時に頭の冠をかぶり、羽を広げて舞うところが見所。


◆ 紅塵車の大幕
五町内のうち西六軒町の大幕だけが濃紺(紫)の幕を使用していました。かつて、尾張藩十代藩主の徳川斎朝公が西枇杷島まつりを上覧された折、お囃子が大層上手であったことに対する褒美として紫色の幕を付けて曳行して良いという許可を得たといいます。
但し、紫色は当時高貴な色とされていたために、色の呼称は「あやめ色」と呼んでいました。

大幕の文字は縫い跡などから、かつては紅塵車と刺繍されていたようですが、江戸時代の終り頃に水谷納斎(1773〜1856)の書による今日の西六軒町に変わっています。

ちなみに、現在使用している大幕は、昭和62年に新調したものです。


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